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2011-09-28

ヒンドゥー教

こんばんは。



今日は、現在のインドの民族宗教である『ヒンドゥー教』についてお話します。






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ヒンドゥー教』は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教です。



ヒンドゥー教徒』の数は、インド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると

約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、世界で第3番目の規模の宗教

になります。



日本では『インド教』と呼ばれることもあり、又、中国や韓国でも『印度教』と

呼ばれますが、現在のインドは『世俗国家』ですので国教はありません。



またインド国内でも、『インド教』と呼ばれた事はありません。





ヒンドゥー』の語源は、サンスクリット語でインダス川を意味する

スィンドゥ」が、古代ペルシアで「ヒンドフ」に変化したものです。



ペルシアから見て「インダス川対岸に住む人々」という意味になります。



これがインドに逆輸入されて『ヒンドゥー』になりました。



インド植民地時代に、大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す

名称として採用したことから、この呼称が広まったとされています。





ヒンドゥー教』は『バラモン教』から聖典や『カースト制度』を引き継ぎ、

土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教です。





紀元前2000年頃に『アーリア人』がイランからインド北西部に侵入してきました。



彼らは前1500年頃に『ヴェーダ聖典』を成立させ、これに基づく『バラモン教』を

信仰していました。



しかし、紀元前5世紀ごろに政治的な変化や『仏教』の隆盛があり『バラモン教』は

変貌を迫られました。



その結果 『バラモン教』は民間の宗教を受け入れ、同化し、そして『ヒンドゥー教』へ

と変化して行きました。



ヒンドゥー教』は、紀元前5世紀から4世紀掛けて顕在化し始め、紀元後、4世紀から5世紀に

当時優勢であった『仏教』を凌ぐようになりました。



その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けています。





ヒンドゥー教』は、神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、

四住期に代表される生活様式、『身分(ヴァルナ)』・『職業(ジャーティ)』までを

含んだ『カースト制』を特徴とする宗教です。



三神一体(トリムルティ)』とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち

ブラフマー』:宇宙の創造を司る神

ヴィシュヌ』:宇宙の維持を司る神

シヴァ』:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

は一体をなすとされています。



しかし現在では、『ブラフマー神』を信仰する人は減り、『ヴィシュヌ神』と

シヴァ神』が二大神として並び称され、多くの信者を抱えています。



ヴィシュヌ神』を信仰する派を『ヴィシュヌ教』、また『シヴァ神』を

信仰する派を『シヴァ教』と呼んでいます。





   ※『ヒンドゥー教』の神や祭祀は一部形を変えながらも、

    日本の仏教に大きな影響を与えています。





又、『ヒンドゥー教』の特色としましては次の通りとなります。


ヒンドゥー教』は多神教であり、地域や所属する集団によって非常に多様な

信仰形態をとっています。



その為、『ヒンドゥー教』の範囲は非常に曖昧でありますが、インド国内の

広義の定義においては、『キリスト教』や『イスラム教』など、インド以外の

地域で発祥した特定宗教以外のすべての宗教に相当する、とされています。



一例として、インドにおいて『仏教』は『ヒンドゥー教』の一派とされ、又、

インド憲法25条においては、『ヒンドゥー教』から分派したと考えられる『シク教』、

ジャイナ教』、『仏教』を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われています。





それでは、今日はここまで!



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2011-09-24

後漢書

こんばんは。



今日も、書物についてのお話です。





天竺』の事が紹介されたという『後漢書(ごかんじょ)』について説明したいと思います。





この話も余興的な感じで読んで頂ければ幸いです。





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後漢書(ごかんじょ)』は、『中国後漢朝』について書かれた歴史書で

二十四史』の一つです。

本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体で、成立は

5世紀南北朝時代の『南朝宋』の時代で編者は『范曄(はんよう 398年-445年)

となります。



范曄』は、幼い頃から学問に長じ、経史に広く通じ、文章に巧みで音律にも

通じていたといわれています。



』の創始者・『劉裕』に仕えて『尚書吏部郎』となりましたが、左遷されて

宣城太守になり、在任中の432年(元嘉9年)に『後漢書』を著しました。



ただし『范曄』が執筆したのは本紀と列伝のみであり、志については、『范曄』が

後に『文帝』の弟、『劉義康』擁立の事件に関ったことで処刑されてしまったので

書かれていません。



後に『南朝梁』の『劉昭』は、『范曄』の『後漢書』に、『西晋』の『司馬彪』が

著した『続漢書』の志の部分を合わせ、注釈を付け足しました。



このため現在伝わるのは、『李賢』と『劉昭』の注釈を付け足した『続漢書』の志を

合刻した『北宋時代』の版本に元づくものです。





後漢書』の成立は、432年と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、

年代的には後のことを記述している『三国志』の方が先に成立していました。



その200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著しています。



後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東観漢記』、東晋の

袁宏』の『後漢紀』などがそれにあたります。



その他にも数多くの史書が存在していて、これを『八家後漢書(あるいは七家)』と

呼んでいます。



八家後漢書』は下記の通り。



・『後漢書』(呉の『謝承』)

・『後漢書』(呉の『薛瑩』)

・『後漢書』(西晋の『華嶠』)※『漢後書』とも言われる。

・『続漢書』(西晋の『司馬彪』)

・『後漢書』(東晋の『謝沈』)

・『後漢書』(東晋の『袁山松』)

・『後漢書』(著者不明)

・『漢紀』(東晋の『張璠』)





范曄』は『東観漢記』、『後漢紀』並びに『三国志』を参照しながら『後漢書』を

著したとされます。



しかし『八家後漢書』はほとんど現存しておらず、『汪文臺』の『七家後漢書』、

裴松之』の『三国志』の注釈など、これらの書物から引用した書物から集めた

一部分のみを見ることが出来ます。



   ※『東観漢記』は『永楽大典』からの輯本(引用された文章を集める事で
    散逸した書物を復活させること)があり、『司馬彪』の『続漢書』は、
    前述の通り志の部分が現存している。
    『袁宏』の『後漢紀』はほぼ完全な形で現存している。






それでは、今日はここまで!



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2011-09-21

山海経(せんがいきょう)

こんばんは。



しばらく難しい話が続きましたので、今日からしばらくは話の節々に出てきた言葉について

説明していきたいと思います。





今日は、一番最初にご紹介した記事、『天竺とは?』に出てきた言葉『山海経(せんがいきょう)』です。





かなりインドとかけ離れた話ではありますが、全くの無関係と言う訳ではありません

ので、まぁ余興的な感じで読んで頂ければ幸いです。





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山海経』は、中国の地理書であり、中国古代の戦国時代から

秦朝・漢代にかけて少しずつ付加執筆されて完成したものと考えられており、

最古の地理書(地誌)とされています。





ですが、『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を

示すものであり、『奇書』扱いされています。



著者は『』の治水を助けた『伯益』によるとされていますが、実際は多数の

著者の手が加わり完成したと考えられます。



    ※禹(う)=紀元前2070年頃は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。
     名は、文命(ぶんめい)で、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。
     夏王朝創始後、氏を夏后とした。



    ※伯益(はくえき)=通称「益」。
     堯、舜、禹の三代に仕えた賢臣。
     禹のもとで宰相を務め、やがて禹から禅譲によって帝位を継いだ。
     禹が没した後、3年の喪があけて禹の息子である啓に帝位を譲ったという。
     益が啓を拘禁したという反逆の説、啓が益に代わって帝位につこうとした
     武力革命の説もある。






劉歆』が漢室にたてまつった際には18編あったとされていますが、『漢書』や

芸文志』内では13編、『隋書』、『経籍志』、『新唐書』、『芸文志』では23巻、

旧唐書』では18巻、『日本国見在書目録』では21巻と紹介されています。



現行本は、『西晋』の『郭璞』の注釈を付け加え、5部18巻となっています。



構成の内訳としましては、


山経5書・・・『南山経・西山経・北山経・東山経・中山経』


海外4書 ・・・『海外南経・海外西経・海外北経・海外東経』


海内4書 ・・・『海内南経・海内西経・海内北経・海内東経』


大荒4書 ・・・『大荒東経・大荒南経・大荒西経・大荒北経』


補遺1書 ・・・『海内経』

以上、合計で全18巻となっています。



山海経』には、各地の動物、植物、鉱物などの産物を記してありますが、

その中には空想的な物や、妖怪、神々の記述も多く含まれ、古い時代の

中国各地の神話が伝えられていると考えられています。



そのため、後世失われたものの多い中国神話の重要な基礎資料となっています。





山海経』の舞台設定としましては、河南省の洛陽近郊を中心として叙述されていて、

山経5書は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり、儒教的な傾向を

持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっています。



また、洛陽を中心としている所から、『東周』時期の成立と推定されます。



    ※周(しゅう)=紀元前1046年~紀元前256年頃は、中国古代の王朝。
     殷を倒して王朝を開いた。
     又、時代の名前にも使い、「周代」と言えば、紀元前1046年頃から、 
     遷都して東周となるまでの紀元前771年の間のことを指す。
     国姓は姫(き)。
     東周=紀元前771年~紀元前256年頃を指す。



    ※著者である『伯益』の生きていた時代、並びに『山海経』が成立した時代とは
     大きく開きがあります。
     






もともとは絵地図に解説文の組み合わせで、『山海図経』と呼ばれていましたが、

絵地図は失われてしまった為、後世に解説文を頼りに想像で挿絵をつけました。





日本へは平安時代に伝わり、江戸時代には『刊本』として流通していました。



   ※『刊本(かんぽん)』=印刷の技術により、多くの部数を複製された
    図書の総称。出版本の別称。





それでは、今日はここまで!



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2011-09-19

ゴータマブッダ(釈迦)④

こんばんは。



今日は『ゴータマ・ブッダ(釈迦)』についてのお話、

第4回目です。



前回は悟り(成道)を開き、教団を興すまでを書きましたので、

今回は、伝道(布教)から入滅(亡くなる)までをお話したいと思います。




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釈迦』が教団を興し、『ラージャグリハ(王舎城)』を中心としての伝道生活を行った後、

最後の一年間まで『釈迦』がどのように伝道生活を送ったかは詳しくは明らかになっていません。



しかし、経典をたどると、『故国カピラヴァストゥ』の訪問によって、『釈迦族』の王子や

子弟たちである、『ラーフラ』、『アーナンダ』、『アニルッダ』、『デーヴァダッタ』 、

及び、『シュードラ』の出身である『ウパーリ』が先んじて弟子となり、諸王子を差し置いて

その上首となるなど、『釈迦族』から仏弟子となる者が続出しました。



また『コーサラ国』を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばしたと伝えられています。



たとえば『クル国(kuru)』 の『カンマーサダンマ(kammaasadamma)』や、

ヴァンサ国(vaMsa)』 の首都、『コーサンビー(kosaambii)』 などです。



成道後14年目の『安居(あんご)』は『コーサラ国』の『シュラーヴァスティー』の『祇園精舎』で

開かれたとされています。



   ※『安居(あんご)』=それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に
    集まって集団で修行すること。及び、その期間の事を指す。

   
   ※『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)』=中インドの『シュラーヴァスティー(舎衛城)』に
    あった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所。
    『天竺五精舎』(釈迦在世にあった五つの寺院)の一つ。





このように『釈迦』に教化・伝道された地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を

包んでいます。



アンガ (aGga)』・『マガダ (magadha)』・『ヴァッジ (vajji)』・『マトゥラー (mathura)』・

コーサラ (kosalaa)』・『クル (kuru)』・『パンチャーラー (paJcaalaa)』・『ヴァンサ (vaMsa)

などが『釈迦』が布教して歩いた地域となります。





では『釈迦』が入滅するまでを見ていきたいと思います。



釈迦』の伝記の中で最も克明に記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴となります。



これは、漢訳の『長阿含経』の中の『遊行経』とそれらの異訳、また『パーリ所伝』の『大般涅槃経

などに記録されています。



涅槃』の前年の雨期は、『舎衛国』の『祇園精舎』で『安居』が開かれました。



釈迦』の最後の伝道は『王舎城』の『竹林精舎』から始められたといわれていますので、

前年の『安居』を終わってから『釈迦』は『カピラヴァストゥ』に立ち寄り、『コーサラ

国王『プラセーナジット』の訪問をうけ、最後の伝道が『ラージャクリハ』から開始されることに

なったと考えられます。





又、余談ですが、この『プラセーナジット』の留守中、『コーサラ国』では王子が兵をあげて王位を

奪い、『ヴィルーダカ』が王となりました。



そこで『プラセーナジット』は、やむなく王女が嫁いでいた『マガダ国』の

アジャータシャトル(ajaatazatru、阿闍世王)』を頼って向かいましたが、

城門に達する直前に亡くなったといわれています。





ヴィルーダカ』は王位を奪うと、即座に『カピラヴァストゥ』の攻略に向かいました。



この時、『釈迦』はまだ『カピラヴァストゥ』に残っており、故国を急襲する軍を、

道筋の樹下に座って三度阻止しましたが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついに

カピラヴァストゥ』は攻略されてしまいました。



しかし、この『ヴィルーダカ』も、河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)に

よって死んだと記録されています。



釈迦』は『カピラヴァストゥ』から南下して『マガダ国』の『王舎城』に着き、

しばらく留まりました。



その後、『釈迦』は多くの弟子を従え、『王舎城』から最後の旅に出発しました。

まず、『アンバラッティカ (ambalaTThika)』にある王の家に立ち寄り、ついで『ナーランダー

の『パ-ヴァリカー』という、マンゴーの樹の下に滞在し、『サーリプッタ(舎利弗)』と

問答したそうです。



次に『パータリガーマ (paaTaligaama)』に向かい、ここで、『釈迦』は、

破戒の損失』と『持戒の利益』について説いたとされています。



ここは後の『マガダ国』の首都となる『パータリプトラ (paataliputra、華子城)

であり、現在の『パトナ』でもあります。



釈迦』はこの『パータリプトラ』を後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、

ヴァッジ国』の『コーリー城』に着きました。



ここで亡くなった人々の運命について、『アーナンダ』の質問に答えながら、

最後に人々が運命を知る標準となるものとして『法鏡』の説法をします。



釈迦』はこの『法鏡』を説いてから、『四諦』を説いて、苦悩と苦悩の起源と、

苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し
悟りました。



そして、『生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや

生存に戻ることはない
』と説法しました。



次に『釈迦』は、『コーリー城』を出発し、『ナディカガーマ』を経て『ヴァイシャーリー』に

着きました。



ここは『ヴァッジ国』の首都であり、『アンバーパリー』という遊女が所有するマンゴー林に

滞在し、『戒律』や『生天の教え』、『四諦』を説きました。



やがてここを去って『ヴェールバ村』に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになります。



すなわち『釈迦』はここで『アーナンダ』などとともに『安居』に入り、他の弟子たちは

それぞれ『縁故』を求めて『安居』に入ったとされます。



この時『釈迦』は死に瀕するような大病を患ってしまいましたが、雨期の終わる頃には

気力を回復しました。



この時、『アーナンダ』は『釈迦』の病の治ったことを喜んだ後『師が『比丘僧伽』のことに

ついて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました』


と言いました。



これについて『釈迦』は、「比丘僧伽』は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、

ことごとく法を説いた。『阿難』よ、『如来』の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。

教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。

自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを

草紐で縛り、やっと保たれているようなものだ。

だから、『阿難』よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、

法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが

比丘たちの中において最高処にあるものである


と説法したとされます。



これが、『自帰依自灯明、法帰依法灯明』の教えとなります。





やがて雨期も終わり、『釈迦』は、『ヴァイシャーリー』へ『托鉢』に出かけ、永年しばしば

訪れた『ウデーナ廟』、『ゴータマカ廟』、『サーランダダ廟』、『サワラ廟』などを訪ね

歩きました。



托鉢』から戻ると、『アーナンダ』を促して『チャパラの霊場』に赴き、聖者の教えと神通力

について説いたとされます。



托鉢』を終わって、『釈迦』は、これが「『如来』の『ヴァイシャーリー』の見納めである」と

言い、『バァンダガーマ(bhandagaama) 』 に移り『四諦』を説き、さらに『ハッティ (hatthi)』、

アンバガーマ (ambagaam)』、『ジャンブガーマ (jaambugaama)』、

ボーガガーマ (bhogagaama)』を経て『パーヴァー (paavaa)』に着きました。



ここで『四大教法』を説き、仏説が何であるかを明らかにし、『戒定慧の三学』を説いたとされます。



釈迦』は、ここで鍛冶屋の『純陀(チュンダ)』の為に法を説き、供養を受けましたが、

激しい腹痛を訴えるようになりました。



カクッター河』で沐浴して、最後の歩みを『クシナーラー (kusinaara)』 に向け、

その近くの『ヒランニャバッティ河』のほとりに行き、マルラ (malla) 族(マッラ国)の

サーラの林』に横たわり、そこで入滅しました。



釈迦』が入滅した日付は、紀元前386年2月15日と記録されています。



これを『仏滅(ぶつめつ)』と言います。



腹痛となった原因は『スーカラマッタヴァ』という料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフの

ようなキノコであったという説もあるが定かではありません。



釈迦』の入滅の後、その遺骸は『マルラ族』の手によって火葬されました。



当時、『釈迦』に帰依していた八大国の王たちは、『仏陀』の『遺骨仏舎利』を得ようと

マルラ族に遺骨の分与を乞いましたが、これは拒否されました。



その為、遺骨の分配について争いが起きましたが、『ドーナバラモン』の調停を得て『舎利』は

八分されました。



遅れて来た『マウリヤ族』の代表は灰を得て『灰塔』を建てたと言われています。その八大国とは、

1.『クシナーラー』の『マルラ族

2.『マガダ国』の『アジャタシャトゥル王

3.『ベーシャーリー』の『リッチャビ族

4.『カビラヴァストフ』の『シャーキャ族

5.『アッラカッパ』の『プリ族

6.『ラーマガーマ』の『コーリャ族

7.『ヴェータデーバ』の『バラモン

8.『バーヴァー』の『マルラ族

となります。





入減後、弟子たちは亡き『釈迦』を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、

説かれた法と律とを結集しました。



これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのであります。






ここまでが、『釈迦』の伝道(布教)から入滅(亡くなる)までの話となります。





解り辛い言葉が非常に多いですが、後々、少しずつ説明していきますね。





それでは、今日はここまで!



次回をお楽しみに!





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2011-09-17

釈迦

釈迦(しゃか)



釈迦(しゃか)、『梵名』:シャーキャ(zaakya)・(Śākya)

生没年:紀元前463年? - 紀元前383年?

仏教』の開祖。


本名(俗名)は、

パーリ語形『ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)

サンスクリット語形『ガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha)

漢訳では、『瞿曇 悉達多(くどん しっだった)


日本では一般に『ゴータマ・シッダールタ』と俗称される。

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インドの文学や思想、宗教や神々の話に魅入られていろいろ勉強しています。
このブログでは、私の得た知識を解りやすく発信し、多くの方に興味を持って頂く事を目的としています。
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